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​情報紙 SECOND

SECOND Column Page

家具屋の思い出話

(30)「学生時代④」
Cozy Flat オーナー 仲 洋史

ホンダのカブ号のダダダダっという音が近づいてくる。僕は玄関まで走り何食わぬ顔で待つ。「小柳サーン?」・・・「はーい!」「書留デース。印鑑お願いしマ-ス。」「はーい。ちょっとまってくださ~い。」下宿屋の部屋のドアは鍵など掛かっていないし、印鑑の置き場所はだいたい机の右側一番上の引き出しと決まっている。郵便屋さんが現金封筒を持って来たのが分かった瞬間、僕は小柳先輩に変身したのだった。「お疲れさまでしたー!」郵便屋さんに深々と礼をし、踵を返す。当然のようにこの現金封筒は今日一日私の管理下に置かれた。その夜もいつものようにみんなが一つの部屋に集まっている。「あーぁ何か旨いもの食いたいな~!」「誰か金持ってないのかよ~!旨いもの食おうや!」みんながかぶりを振り、うな垂れる。話も煮詰まってきた頃、昼間の件を聞いていた先輩が僕に話を振る。「あのサー。お前お金あるんじゃない?」僕「ないっすよ。」すかさず僕が言う「小柳先輩、助けてくださいよ!」お鉢が回ってきた小柳先輩「俺に金があったら奢りますよ~!」僕「本当ですか?」「当たり前やろ!」小柳先輩が言い放つ。時は熟した。おもむろに先輩が「お前、昼間なんか預かってなかったか?」と僕に問う「そう言えば来てました!代わりに受け取っときました。小柳先輩!」と現金封筒をおもむろに差し出す。その瞬間小柳先輩が「あちゃー。えっつ?あー?」と言って弱々しく僕から現金封筒を受け取る「今月のお小遣いが・・・。」全員笑ってる。心から楽しそうに。皆がしてやったりと立ち上がり恒例の親子丼を食べに行く用意を始める。下宿屋を出て歩きながら、奢る方も笑い奢られる方も笑っている。何故なら、みんなが同じ事をやられていた。言えば持ち回りの行事みたいなものだった。昔、僕たちへの仕送りは現金封筒が多く、その中にはありがたいことに下宿代と幾ばくかのお小遣いが入っていた。親の職業でおおよその現金封筒到着日が決まっていて、25日給料日の親からは27日か28日に届くという具合だった。僕の現金封筒には必ず母親の字で無駄遣いしないようにと書いた紙が入っていた。僕は空の現金封筒を卒業するまで全てとっておいた。ありがたくてそれは捨てられなかった。それでも僕らの下宿では損得勘定の前に仲間意識があり、5月病など無縁で毎日が楽しかった。もちろんこれは犯罪だったろうが、その時代にはその時代のルールがあり僕らの下宿屋では許されていた。ネコババすることなど誰も考えていなかったから成立していたのだろう。あの時代はみんな貧乏でジーンズなど履きっ放しで1年くらい洗わなくても平気だったし、それでリンゴを拭いて食っていた。おおらかで言いたいことを言い合いそれぞれが自由で居ながら、時空を共有していた。僕はジャズを聴いていたし、フォーク好きもいればハードロック系もいた。それぞれの部屋はとても狭くそして寒かったが人が集う事で暖かくなり、何より心が熱く居心地がよかった。あの頃はとにかく毎日が充実していたんだ。

家具屋の思い出話

(29)「学生時代③」
Cozy Flat オーナー 仲 洋史

明日阿蘇に行こう!よし、阿蘇山に登ろう!流れでそうなったみたいだが、下宿屋の先輩達と酒を飲んでいるとそういう話になった。みんなで酒を飲んでいると突拍子もない話になるのはよくある事。福岡から熊本阿蘇。近いっちゃ近いが、遠いっちゃ遠い。ギリギリの日帰り旅行だ。まぁ夏が近い日だったのでラフな格好で行こうと言うことに決まった。朝集合してみると、先輩達は皆一応旅行するよねと言う服装で、揃って革靴を履いている。無論私も一足しか持っていない革靴を履いている。その中に1人2年生小柳先輩だけはサンダルだった。「サ、サンダル?」「だってラフな格好だと言ったじゃないですか。」ちょっとむくれている。「まぁそうは言ったけど、熊本、阿蘇山だよ。」動じない。「まぁいいか出発しよう。」列車に揺られながら、たわいもない話をし「しかし小柳最高だな。やっぱこうと決めたら曲げないよね!流石です。」小柳先輩はちょっと馬鹿にされながら先輩達に褒められていた。列車からバスに乗り継ぎそれからロープウェイでやっと阿蘇中岳火口付近に到着。普通に歩いて行ける第二火口から1度下って少し見上げる第一火口へ。勢いを付けて5メーター位駆け上る。先に走って行った先輩達が登った瞬間「わっ」と言う。何を脅かしてるんですかと思いながら僕らも駆け登った。登りきった瞬間。あらん限りの声でわーと叫んだ。登り切った所がてっぺんだった。足元30cm分が平らなだけでそこから50mを超える断崖になっており、その先に不気味に口を開けて白煙を出している本物の火口があった。落ちたら確実に地獄への入口だ。足がすくんだ。なぜ危険を知らせる看板がないんだ。死んだらどうするんだ。ほんとにそう思った。今は当然立ち入り禁止区域である。全員同じ顔をしていた。怖くて、涙を少し目じりにためて口をゆがめ今にも泣きそうな顔で固まっていた。ゴーゴーと響く地球の唸り声を初めて聞いた。遠くに見る美しい山々とは正反対の吹き出るエネルギーの圧に叩きのめされていた。これが地球なんだ。色々を想い、色々を学んだ。私たちは阿蘇中岳にびびり倒されて家路に向かった。列車に乗り少し時間が経って笑いが戻ってきた頃、足元を見ると、みんなの革靴は火口の砂で灰色になっていた。全員で小柳先輩のサンダルを想い出し彼の足を見た。彼の足は泥んこに汚れてはいたが、何せサンダル履きだから洗えばよかった。「小柳お前最高だな。さすがだよ。」小柳先輩は今日2度目にして心からみんなに褒められ、少し勝ち誇ったように「でしょう!ですよね!よーし、また行きましょう!」と笑っていた。その時のしがらみのない仲間達の屈託のない笑顔は、阿蘇山のエネルギーにも引けを取らないくらい活き活きとしていた。

家具屋の思い出話

(28)「学生時代②下宿の先輩」
Cozy Flat オーナー 仲 洋史

 学生時代、下宿屋に住んでいた。下宿屋とは朝晩賄い付きのアパートみたいな物で10人位がそれぞれ3畳の部屋に暮らしていた。この南片江の下宿屋の住人は殆どが何某かの志望校に落ちてここにたどり着いた輩で、吹き溜まっていた。吹き溜まってはいたが若いエネルギーとそこそこの知恵は持っていた。夕方飯を喰い、時間が余るとギターをかき鳴らす奴がいたり、プロ野球談議やらプロレス談議やらが行われていたが、自然発生的に麻雀をする事が段々と習わしとなっていった。しかしコタツの麻雀は時間が経つと、とても疲れる。半荘4回もすると疲労困憊となる。そこで私はコタツを二段重ねにして麻雀台にすることを思いついた。椅子も用意した。この台が大ヒットで連日連夜麻雀に明け暮れた。疲れないのだ!順番待ちとなり仕舞いには1軍・2軍とかできる始末だった。夏が近づいたある日明日起きてみんなで買い物に行こうという話になった。食事を済ませぞろぞろと玄関口に集まって出発した。朝日がきれいだった。幸せだった。「真っこときれいぜよ。」「ほんに美しゅうごわす。」みんなそう思った。朝日が清々しかった。若さに任せて天下国家を論じる。皆にそんな勢いがあった。ワイワイガヤガヤ歩いていると1人がこういった。でもあれは…。あれは夕日じゃねぇか?何を言う!天下を語るときに転覆を図るようなことを言うではないわ!みんなその思いで見つめ合った。各々が腕にはめたセイコーやシチズンの時計を見ている。6時だ。6時じゃないか!安くて正確なCASIOのデジタル時計をはめてる奴が言った。いや!18時だわ!われわれはこのところ毎日朝まで麻雀をし、学校にも行かず夕方まで寝る生活を続けていた。その日も同じように過ごしそしてご飯を食べて出かけたのだった。全員が同じルーティーンで行動していると時間の概念が無くなると言う人間のありようを学習させられる事件だった。よく見ると陽は明らかに沈んで行っている。全員が肩を落とし泣きそうな感覚になり、歩いた。とりあえず買い物をして帰った事だけは覚えているが何を買ったのかは覚えていない。あれから朝までの麻雀は自粛するようになり、二段重ねの麻雀台は使わなくなった。でもあの雀台は最高だった。一段目には灰皿も置けたし疲れたら足も乗せられた。何より高さがダイニングテーブルと同じだったから椅子との相性がバツグンだった。一種の発明品だと自負していた。まだ真面目で幼い学生の一面も持っていた私にはほろ苦くていまだ忘れられない思い出となっている。そんな思い出と共に昭和は明らかに遠くなっている。

家具屋の思い出話

(27)「学生時代①」
Cozy Flat オーナー 仲 洋史

 学生時代、下宿屋に住んでいた。下宿屋とは朝晩賄い付きのアパートみたいな物で10人位がそれぞれ3畳の部屋に暮らしていた。この南片江の下宿屋の住人は殆どが何某かの志望校に落ちてここにたどり着いた輩で、吹き溜まっていた。吹き溜まってはいたが若いエネルギーとそこそこの知恵は持っていた。夕方飯を喰い、時間が余るとギターをかき鳴らす奴がいたり、プロ野球談議やらプロレス談議やらが行われていたが、自然発生的に麻雀をする事が段々と習わしとなっていった。しかしコタツの麻雀は時間が経つと、とても疲れる。半荘4回もすると疲労困憊となる。そこで私はコタツを二段重ねにして麻雀台にすることを思いついた。椅子も用意した。この台が大ヒットで連日連夜麻雀に明け暮れた。疲れないのだ!順番待ちとなり仕舞いには1軍・2軍とかできる始末だった。夏が近づいたある日明日起きてみんなで買い物に行こうという話になった。食事を済ませぞろぞろと玄関口に集まって出発した。朝日がきれいだった。幸せだった。「真っこときれいぜよ。」「ほんに美しゅうごわす。」みんなそう思った。朝日が清々しかった。若さに任せて天下国家を論じる。皆にそんな勢いがあった。ワイワイガヤガヤ歩いていると1人がこういった。でもあれは…。あれは夕日じゃねぇか?何を言う!天下を語るときに転覆を図るようなことを言うではないわ!みんなその思いで見つめ合った。各々が腕にはめたセイコーやシチズンの時計を見ている。6時だ。6時じゃないか!安くて正確なCASIOのデジタル時計をはめてる奴が言った。いや!18時だわ!われわれはこのところ毎日朝まで麻雀をし、学校にも行かず夕方まで寝る生活を続けていた。その日も同じように過ごしそしてご飯を食べて出かけたのだった。全員が同じルーティーンで行動していると時間の概念が無くなると言う人間のありようを学習させられる事件だった。よく見ると陽は明らかに沈んで行っている。全員が肩を落とし泣きそうな感覚になり、歩いた。とりあえず買い物をして帰った事だけは覚えているが何を買ったのかは覚えていない。あれから朝までの麻雀は自粛するようになり、二段重ねの麻雀台は使わなくなった。でもあの雀台は最高だった。一段目には灰皿も置けたし疲れたら足も乗せられた。何より高さがダイニングテーブルと同じだったから椅子との相性がバツグンだった。一種の発明品だと自負していた。まだ真面目で幼い学生の一面も持っていた私にはほろ苦くていまだ忘れられない思い出となっている。そんな思い出と共に昭和は明らかに遠くなっている。

家具屋の思い出話

(26)「①生成AIが作る匂いが出るTV」
Cozy Flat オーナー 仲 洋史

 以前よりインテリアの仕事をしている中で、匂いを味方に出来たらどんなにいいだろうと考えていた。モデルハウスのシステムキッチンにコーヒーの香りが漂っていたらもっと素敵じゃな~い?とか、玄関のシューズクローゼットにはローズの香りがテッパンじゃない?とか、いつも家具のディスプレイをする時にプラス+匂いが有ったらどれほど素敵だろうかと考えていたのです。そんな匂いを演出する装置があればどんなに楽しいだろうかと。今、生成AIが世の中を変えている。いよいよ「生成AI匂い発生テレビ」なるものが出てきて映像に合わせて匂いを伝えて来るんじゃないかと勝手に想像してみる。さぁ大好きな妄想タイムのスイッチON!ハワイ、ワイキキビーチの潮の香りが風に乗って漂ってくる。上々の滑り出しだ。いいじゃないか!ワクワクするぞ!次にビーチのバーでモヒートを作っている。ライムの香りがしてくる。何とも言えないいい香りだ。最高じゃないか!よしよしよし!次だ次!100インチのデカいテレビに料理番組が映し出される。番組終盤、画面いっぱいに出来立てで、ジュージュー言ってるトンカツのアップ!幅1メートルを超える、とてつもないデカさのトンカツ!匂いが噴き出してきた。腹減ってたら倒れるぞ、腹いっぱいでもこりゃ別の意味で倒れるな。どんな匂いも瞬時に出してくる。さすが生成AI匂い発生テレビだ。勿論コピー機のトナーのような匂いキットが入れてあり、それを合成して瞬時に匂いを出してくるのだ。一手間掛けたサプライズだ。やるなAI!むむむ、何だかきな臭い匂いが…。思わずテレビ画面を見た。警察24時じゃないか!そうか事件の匂いだったのか。やり過ぎだぞAI!チャンネルを変えてしばらくすると強い化粧の匂いと共に何やら機械油の匂いがしてくるじゃないか。な、なんだ?ど、どうした?目を見張ったそこには画面いっぱいに衣装がドンドン大きくなっていく小林幸子が映っている。オイオイオイ!何でも匂いを付ければいいってもんじゃないぞ!生成AI匂い発生テレビもまだまだ研究の余地がありそうだな…。とりあえずテレビを消した。

 一息入れようとコーヒーをカップに注ぐとテレビのスイッチが入りシステムキッチンの映像が浮かび上がる・・・どうした?逆もあるのか?生成AI匂い発生テレビ君!妄想タイムのスイッチがまだ切れていない・・・。

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