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​情報紙 SECOND

SECOND Column Page

家具屋の思い出話

(41)「救急病院で診察」
Cozy Flat オーナー 仲 洋史

数日前から変調を来たしていたが、とうとう我慢できずに救急病院で診察してもらった。自分では心臓に負担がかかっていると思い、循環器系を得意とする病院を選んで、妻に送ってもらった。日曜日だったこともあり、肝心の心臓の専門医はいなかったがとてもよく調べてくれて、心電図、心臓と腹部のエコー、採血、胸と腹部のレントゲン等見てもらった。しばらく寝かされた後結果的に悪いところは見当たらず「心臓ももっと詳しいことを知りたければ改めてCT検査など行ったらどうですか。」と言われた。血液検査の数値を見ても今のところ悪いところは1つも見当たらないと。【ヤマイ ハ キカラ。】そういう事なのか…そういえば遠来の友の来訪が数日後に迫っていたが、それが原因だったのだろうか。私が救急外来に行った話は知らないうちに広がっていて、娘は「今ね、救急外来にお父さん連れてきたの。」と言う妻のメールで、「えーなんで~!」と叫び、義理の母は「病気だと思い込んだら病気になるから!私がそうだから!」と真剣に妻に伝え。義理の姉はたまたま帰っていた実家で私の心臓がとても悪いらしいと義兄に伝え、馬の心臓を食べさせるんだ!と近くの肉屋に走らせた。私が病室に寝かされている間に色々と話は広がり、私が入院しそうな話になっていた。

【病は気から。】検査結果で悪いところは見当たりませんよと言う当直医の言葉で私の気持ちは相当楽になった。そんなもんだな。それにしてもみんなが存外気を遣ってくれた事がうれしくて、どうせならこの勢いで仕入先が今回の代金は良いですよとか、銀行が住宅ローンはもう返さなくていいですよとか、借入金は完済という事でとか言ってくれたら僕の病気は1000%治ると思ってしまうけど・・・。妻に言われた「これからは気を使いすぎずに!なるようになるから、あんまり考えすぎないように。」と言う言葉がとても有難く、本当にこれからはあまり気を回すのはよそうと思った。喧嘩をした時の「だいたいあーたは!」的な意地悪な言い回しをする妻の姿はそこにはなく、心からの優しさに頭が下がった。店に帰り二人で遅い昼食を済ませて、「今日はご迷惑をおかけしました。申し訳ございませんでした」。と3回程、殊勝な事を言い頭を下げると、妻は気分良さそうに「今日は病院に行く日だったのよ。行ってよかったじゃない。何にもなくて最高じゃん!」「次は胃カメラね、予約しようね!」とツアーの予定みたいな事をいい出し、「そう言えば、来月義姉さん達と温泉に行くわよ!一緒に来なさいよ。」とギロリと睨まれ、いつものパターンの「女四人と男は私一人の旅」を思うと胃がチクチクと痛み、また病気になりそうになっている。

家具屋の思い出話

(40)「カビキラー殺人事件」
Cozy Flat オーナー 仲 洋史

休みの日は遅く起きる僕が何故かその日は早く目が覚めてしまった。

とりあえず朝起きてからのルーティーンとして顔を洗って歯を磨く。まぁこれは日本中で行われていることだと思うが、この日は歯を磨くと苦かった。なぜだ!水か?歯磨き粉か?わからない。誰の仕業だ?わからない。原因がわからない。殺されるのか?俺が悪いのか?十津川警部に電話か?アガサクリスティーの世界に入り込んだのか?心臓が痛くなった。息苦しいし、喉が痛い。こういう時は誰に処置をしてもらう?やはり大門未知子か?

そういえばこの家が建つ前、ここは工場跡地でフッ素残量が云々の話があったな?

でも許容範囲とか言われて結局家を建てたんだ。もしかして蛇口から出ている水がPFOS(ペルフルオロオクタンスルホン酸=有機フッ素化合物)の国の定める暫定目標値を超えているんじゃないか?どうすればいいんだ!それから僕の声は森進一と化し、僕の首は少し歪み、まるで麻生太郎のようになった。鏡の前に立ち尽くす僕。妻が怪訝そうにクイックルワイパーをもって顔を覗き込む。「どうしたの?そんな顔して?」そんな顔と言われても世間ではまあまあ合格的に評価されていると自負している私の顔だが、「何だかニガイんだ。歯を磨いたんだけど。」「えー?どういうこと?具合が悪いの?」「だから口の中がニガイんだ。」「あーもしかして?そうかな?・・・洗面所にカビキラーしたのよ。蛇口もしちゃった。一応水は流したけど全部洗ってなかったかな?」犯人は君か!土壌を疑い、水道局のせいかもと疑っていた僕は首を垂れるしかなかった。「大体あーたが休みの日にもかかわらず朝早く起きてくるから~」言葉使いが「あなたからあーた」になった時の妻は戦闘モード・臨戦態勢である。こちらも負けずに言う。「死ぬところだったんだぞ!」「あーたが死んだら私も後を追うわよ。」戦闘モードでそう言われても全く心に響かない。増税した後に国民にお金を一回だけ配る政府のようなものだ。ちゃんとこっちは見透かしているんだからな!いや違う、違うだろう!愛する妻は休みの日に朝早く起きて掃除してくれているんじゃないか!ちょっとした間違いは誰にでもある。少し歯ブラシにカビキラーが付いて歯を磨いたところで死にはしないさ。ありがとう愛する妻よ!大体僕が「愛する妻」と表現する時は腹に一物ある時だけど。お互い様で水に流そう。蛇口を指で塞ぎ水を勢いよく流すと黒いカビのようなものがたくさん出てきた。流石カビキラー!愛する妻はこの効果を知っていたのか!さすがだ!と思いながらもしばらく蛇口や洗面台を水浸しにしながら掃除した。その後うがいを100回くらいして、どうにか心を落ち着かせた。心は平常心に戻ったが、その日一日僕の声はいつもより渋みを増していた。

家具屋の思い出話

(39)「妻の実家の正月」
Cozy Flat オーナー 仲 洋史

「早くお風呂からあがれってよ。」「もう正月になるよ!」兄は大晦日の11時半くらいから風呂に入り始めた。僕は心配で兄に伝えた。うちでは新年を迎える12時にとりあえず家族みんなで「おめでとう」を言うのが習わしだった。それ以外は何もないごくごく普通のサラリーマン家庭。子供たちは育つと大人びてアウトローを気取ろうとする。正月なんてどうでもいいじゃないかと強がって、俺は風呂で迎える!と思ったんだろうがそれでも正月を意識している事には変わりがなかった。僕にせかされて兄はしぶしぶ風呂から出て恒例の「おめでとう」に参加した。万事めでたしめでたしと僕は学級委員のような気持になった。大きくなった子供たちはそれぞれの生活をはじめ、正月の「おめでとう」は毎年とはいかなくなった。紆余曲折があり僕は妻の実家で正月を迎えることになる。「なんだこれは?!」すごい料理が並んでいる。本家のお正月とはこういうものなのか?これが初めてお邪魔したときの感想だ。義父は、誠実でかげひなたがなく器が大きく背筋が伸びていた。義兄は剣道の有段者で家業のほかに消防団にも入っていて子供も剣道をしていた。正月の早朝から道場で稽古をつけてきたという。僕の生まれたサラリーマン家庭ののんびりした正月とはかけ離れていた。たまに訪ねてくる親戚や父親の部下の人とどう接していいかわからないぼんくらな子供たちのささやかな正月とは全く違っていた。妻の家の正月は、着物を着た義父さんのご挨拶の言葉から始まる。皆正座してその言葉を待つ。流石町会議長選ぶ言葉が重い。お屠蘇をいただき、厳かに食事に入る。天才的に料理が上手な義姉さんと義妹が腕を振るったこまっしゃくれたオードブル的なものが桐の箱に入っており圧倒される。テーブル二つにびっしりと料理が並んでいて圧巻だった。少し落ち着き気が付くとずっと義兄からお酌されている。飲まされる。そのたびに返杯するから兄もびっくりする位飲むのだがケロッとしている。二人とも飲む飲む。心の中で叫ぶ。君は体育会系だから強いかもしれないが僕はそうじゃないぞ!そんなことはお構いなしに飲まされる。そして近所の3社参り、さすがに田舎のお正月はすごかった。本家の本家?もう意味わからないが、おばあちゃんの家に行く。これが古い作りの家でとても寒かった。畳の縁からスースーと冷たい空気が上がってくる。誰かがトイレに行こうと広縁のガラス戸を開けると部屋の温度が瞬時に外気温と同じになった。部屋の中で吐く息が白い。でもなんだかみんながいるところが本当の厳かな正月と思われて、慣れない私としてはとても楽しかった。お義父さんもおばあちゃんももう鬼籍に入られたが、まだ私は忘れられない。百歳を越えたおばあちゃんに「お酒はもうそのくらいにしてご飯を食べなさい。」と叱られた思い出が胸に残る。また正月を妻の実家で迎えることができるのが嬉しくて仕方ない。

家具屋の思い出話

(38)「僕に友達ができた。」
Cozy Flat オーナー 仲 洋史

この年になって友達ができたって喜んでるのはなんだかなぁと思われるかもしれないけど、これは自分のこととしてとても嬉しいし、自慢することでは無いかもしれないけれど、心がじわっと暖かくてやっぱりうれしい。その人とはひょんなことから出会った。けれど僕は出会うべくして出会った気がしてならない。一年前仲良くしてもらっている家具関係の会社で「人手がなくて困ってるんだ~誰かいないかなぁ~。」と喋っていると、うちの会社で休みの日だけでよかったら手伝ってもいいと言ってる人がいるよと言ってくれた。何このタイミングの良さ?と思っていると、さだまさしの「雨宿り」の歌詞じゃないけれどそれから話がとんとん拍子に進みその人に手伝ってもらうことになった。彼はでしゃばらず、何事も黙々と取り組み、仕事を段取り良くこなしていく。何でこんな人が?ビズリーチで探しても出てこないんじゃないかなこんな人?と思わせる働きっぷりだしマッチングアプリでも出会わないんじゃない?と思うほど僕との相性がぴったりだった。穏やかで人柄もよくすぐに打ち解けて一緒に飲みに行くようになり、飲み方も綺麗で退屈しないからお互いの町の自分の行きつけの店にかわりばんこに連れて行くような関係になった。あれから1年が過ぎずっと昔からの友達のように接してもらっている。気が合う人と言うのは、お互いがリスペクトし合い、その人の言葉をちゃんと聞いて自分の意見を押し付けず、いい間合いでその人の心を暖かくしてくれる人なんじゃないかなと僕は改めて思った。うちは家具屋だからその人にはいつも修理や検品などを手伝ってもらっていたのだが、先日緊急の要件で一緒に配達に行ってもらうことになった。配達先は街中のビルの4階だった。エレベーターはなく、階段でソファーを4階まで上げなければならなかった。ここだけの話ちょっと辛かった。それでも彼はそんなことをおくびにも出さずいつものように黙々と段取り良くこなしていた。仕事の先読みがすごく、気の使い方が半端じゃない。僕だけだとこの日の配達をあきらめて業者任せにしてしまったかもしれないくらい難しい案件だった。無事お届け、設置も終わり、車に乗り「4階だったね。ちょっと辛かったね。スミマセンでしたね。」と僕が言うと彼は言った。「そういう時は5階じゃなくてよかったと思いましょうよ。お客さんも喜んでくれたし。」僕の心はとても暖かくなった。「そうか。そうだね。」気がついたらお互い笑っていた。ひょんなことから1年前に出会った人がずっと昔からの友達だったみたいな気がしてならない。

家具屋の思い出話

(37)「昔々のオールナイトニッポン」
Cozy Flat オーナー 仲 洋史

「はーい、そうCCRもあるし~」「そう、クリーデンスクリアウォーターリバイバル!」「今日も素敵な音楽を~、そこで、はーい、今聞こえてきたのは山本リンダの~どうにも止まらない!ゴーズオン!」ディスクジョッキー糸居五郎の名調子。DJとは普通スタッフがやる選曲やターンテーブルを回す作業を一人でこなすパターン。最初からこのおじさんを知ってたわけじゃないが、この人がオールナイトニッポンに復活した時に聞いたこの自由過ぎるフレーズは今でも忘れられない。僕が聞いていたオールナイトニッポンはユーミンとか中島みゆきとか笑福亭鶴光とかいわゆる芸能人がパーソナリティーをやるより前。局アナ=ニッポン放送のアナウンアンサーがやってた時なんだ。深夜放送1時スタート。こんなのを聞いてるリスナー、ましてや中学生なんて昼間眠くて勉強に身が入らないのは当たり前のことだと今更ながら思ってしまう。遅い!実に気が付くのが遅い!しようがないんだ済んだことだし、とても楽しかったんだから。九州はラジオ電波の関係上ニッポン放送のオールナイトニッポンしか満足に聞けなかった。「TBSのパックインミュージック」や「文化放送のセイ!ヤング」はなかなか聞きづらかった。その頃のオールナイトニッポンと言えば曜日ごとに亀淵昭信・斎藤安弘・今仁哲夫・天井邦夫・高島秀武などアナウンサーやプロデューサーが番組をやっていた。亀淵と斎藤は「カメ&アンコー」とか言ってレコードまで出したし、今仁哲夫は春日部のてっちゃーんとか声を張り上げて、天井邦夫は自分の名字を天丼の「、」(てん)のないやつとか静かに言ってそれぞれいい味出していて、高島秀武は狭いブースの中で馬の名前を書いた紙ヒコーキを投げて競馬中継みたいなものをやってリスナーを寝かせようとしなかった。そんな自由を邪魔されないために彼らはスポンサーを最初つけなかったらしい。最も何だかわからない深夜番組にスポンサーも付きようがなかったとは思うが・・・。だから最初は以上各社の協賛で・・・と番組内容に口出ししない協賛の形にしていたそうだ。自由と反骨精神。そんなこんなの僕の兄ちゃんみたいな人たちは、実は時を経てニッポン放送の社長や副社長になっている凄い人達だった。VIVAYOUNG!若者万歳!っとオールナイトニッポンは声高に言っていた。

「君が踊り僕が歌うとき、新しい時代の夜が生まれる。太陽の代わりに音楽を、青空の代わりに夢を。フレッシュな夜をリードするオールナイトニッポン」番組冒頭のこのフレーズはテーマ曲「ビター・スイート・サンバ」とともに僕の心に今も刻まれている。

家具屋の思い出話

(36)「同窓会の誘いが来た」
Cozy Flat オーナー 仲 洋史

中学校の同窓会の誘いが来た。以前から案内の葉書が来ていたがずっと断っていた。5年前に引っ越してからは行方知れずとして案内が来なくなって安心していたところ電話がかかってきた。周りはもうリタイヤして悠々自適だろうが僕はまだ事業をやっていて時間的にゆとりがないし、中学校は佐世保。ちょっと遠くて泊まりになる。やっぱり行くのは止そう。そう考えているとまた電話をかけてくる。美術の先生をリタイヤしたコイツがイチイチ五月蠅くて幹事でもないのに世話を焼きたがりそして最後は自慢話で終わるいつものパターンで話が長い。「同窓会に女が来るぞ。お前が好きだった奴が!女の参加はここんとこずっとなかったが今年は来るって。参加の欄に⭕️が付いてたらしいぞ!だから来いよ?」いつも通り強引だがそれでも断った。同窓会で実はあの頃は!とか初めての思いを打ち明けて、そうだったの?とか言うのか。そこで燃えるには時間が経ちすぎている。そんな事を思いながら思い出す。そう言えば今年来るという彼女の事は正直好きだった。誰よりも好きだった。彼女の家のクリスマスパーティーに呼ばれた時、転校生で無口と思われていた僕は弾けた。彼女の為だったが、たいそう盛り上がり僕は面白いやつと言う事になった。それから思いもしない他の子に好意を抱かれたりした。好きだった彼女はとても明るく振舞っていたが、ホントは寂しがり屋だったのを僕は知っていた。僕は親父の仕事絡みで長崎の高校に進学した。入学してすぐのゴールデンウィークに僕の為に同窓会をみんなが開いてくれた。久しぶりの会話の中で「お前はもう佐世保を捨てたのか。言葉が長崎弁になってるぞ!」なんて言われる。そんなこと言われても生まれが筑豊の僕には外国語をしゃべっているのと同じでその土地の言葉を必死でしゃべっているだけで何を言ってるんだと思ったがとりあえず感謝の意味を込めて「ごめん。」と謝った。会が終わり電車で帰ったのだがその時僕の好だった彼女が越境して離れていった僕に興味があったのかその電車にスパイを差し向けた。そのスパイは何だか違和感たっぷりで使命も完遂せず途中駅で下車していったと思うが報告はしたらしい。「シンパイナシ、ホカノオンナニハメモクレナイ アンシンサレタシ。」スパイさんよ、言っとくけど別の車両から段々近づいてきて僕の席の窓ガラスに映りこんだ君を彼女だったらどんなにいいかと思いながら僕はずっと見ていたんだ。同窓会の案内。来いよ女が来るぞ、お前の好きだったあの…。ありがとうよ。心躍ったよ。しばらくは元気でいれそうだ。CSで昔のミュージックビデオ特集にチャンネルを合わせた。そういえば村井邦彦とアルファレコードを立ち上げてユーミンやYMOのヒット曲をプロデュースしていた川添象朗さんが亡くなったとニュースで言ってたっけ。今日は小坂忠でも聴くとするか。思い出せば、あの頃の空は今より遥かに澄み切って見えていたような気がする。

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©︎freepaper_second
顧問弁護士:ことまる法律事務所
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