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​情報紙 SECOND

SECOND Column Page

家具屋の思い出話

(37)「「昔々のオールナイトニッポン」」
Cozy Flat オーナー 仲 洋史

「はーい、そうCCRもあるし~」「そう、クリーデンスクリアウォーターリバイバル!」「今日も素敵な音楽を~、そこで、はーい、今聞こえてきたのは山本リンダの~どうにも止まらない!ゴーズオン!」ディスクジョッキー糸居五郎の名調子。DJとは普通スタッフがやる選曲やターンテーブルを回す作業を一人でこなすパターン。最初からこのおじさんを知ってたわけじゃないが、この人がオールナイトニッポンに復活した時に聞いたこの自由過ぎるフレーズは今でも忘れられない。僕が聞いていたオールナイトニッポンはユーミンとか中島みゆきとか笑福亭鶴光とかいわゆる芸能人がパーソナリティーをやるより前。局アナ=ニッポン放送のアナウンアンサーがやってた時なんだ。深夜放送1時スタート。こんなのを聞いてるリスナー、ましてや中学生なんて昼間眠くて勉強に身が入らないのは当たり前のことだと今更ながら思ってしまう。遅い!実に気が付くのが遅い!しようがないんだ済んだことだし、とても楽しかったんだから。九州はラジオ電波の関係上ニッポン放送のオールナイトニッポンしか満足に聞けなかった。「TBSのパックインミュージック」や「文化放送のセイ!ヤング」はなかなか聞きづらかった。その頃のオールナイトニッポンと言えば曜日ごとに亀淵昭信・斎藤安弘・今仁哲夫・天井邦夫・高島秀武などアナウンサーやプロデューサーが番組をやっていた。亀淵と斎藤は「カメ&アンコー」とか言ってレコードまで出したし、今仁哲夫は春日部のてっちゃーんとか声を張り上げて、天井邦夫は自分の名字を天丼の「、」(てん)のないやつとか静かに言ってそれぞれいい味出していて、高島秀武は狭いブースの中で馬の名前を書いた紙ヒコーキを投げて競馬中継みたいなものをやってリスナーを寝かせようとしなかった。そんな自由を邪魔されないために彼らはスポンサーを最初つけなかったらしい。最も何だかわからない深夜番組にスポンサーも付きようがなかったとは思うが・・・。だから最初は以上各社の協賛で・・・と番組内容に口出ししない協賛の形にしていたそうだ。自由と反骨精神。そんなこんなの僕の兄ちゃんみたいな人たちは、実は時を経てニッポン放送の社長や副社長になっている凄い人達だった。VIVAYOUNG!若者万歳!っとオールナイトニッポンは声高に言っていた。

「君が踊り僕が歌うとき、新しい時代の夜が生まれる。太陽の代わりに音楽を、青空の代わりに夢を。フレッシュな夜をリードするオールナイトニッポン」番組冒頭のこのフレーズはテーマ曲「ビター・スイート・サンバ」とともに僕の心に今も刻まれている。

家具屋の思い出話

(36)「同窓会の誘いが来た」
Cozy Flat オーナー 仲 洋史

中学校の同窓会の誘いが来た。以前から案内の葉書が来ていたがずっと断っていた。5年前に引っ越してからは行方知れずとして案内が来なくなって安心していたところ電話がかかってきた。周りはもうリタイヤして悠々自適だろうが僕はまだ事業をやっていて時間的にゆとりがないし、中学校は佐世保。ちょっと遠くて泊まりになる。やっぱり行くのは止そう。そう考えているとまた電話をかけてくる。美術の先生をリタイヤしたコイツがイチイチ五月蠅くて幹事でもないのに世話を焼きたがりそして最後は自慢話で終わるいつものパターンで話が長い。「同窓会に女が来るぞ。お前が好きだった奴が!女の参加はここんとこずっとなかったが今年は来るって。参加の欄に⭕️が付いてたらしいぞ!だから来いよ?」いつも通り強引だがそれでも断った。同窓会で実はあの頃は!とか初めての思いを打ち明けて、そうだったの?とか言うのか。そこで燃えるには時間が経ちすぎている。そんな事を思いながら思い出す。そう言えば今年来るという彼女の事は正直好きだった。誰よりも好きだった。彼女の家のクリスマスパーティーに呼ばれた時、転校生で無口と思われていた僕は弾けた。彼女の為だったが、たいそう盛り上がり僕は面白いやつと言う事になった。それから思いもしない他の子に好意を抱かれたりした。好きだった彼女はとても明るく振舞っていたが、ホントは寂しがり屋だったのを僕は知っていた。僕は親父の仕事絡みで長崎の高校に進学した。入学してすぐのゴールデンウィークに僕の為に同窓会をみんなが開いてくれた。久しぶりの会話の中で「お前はもう佐世保を捨てたのか。言葉が長崎弁になってるぞ!」なんて言われる。そんなこと言われても生まれが筑豊の僕には外国語をしゃべっているのと同じでその土地の言葉を必死でしゃべっているだけで何を言ってるんだと思ったがとりあえず感謝の意味を込めて「ごめん。」と謝った。会が終わり電車で帰ったのだがその時僕の好だった彼女が越境して離れていった僕に興味があったのかその電車にスパイを差し向けた。そのスパイは何だか違和感たっぷりで使命も完遂せず途中駅で下車していったと思うが報告はしたらしい。「シンパイナシ、ホカノオンナニハメモクレナイ アンシンサレタシ。」スパイさんよ、言っとくけど別の車両から段々近づいてきて僕の席の窓ガラスに映りこんだ君を彼女だったらどんなにいいかと思いながら僕はずっと見ていたんだ。同窓会の案内。来いよ女が来るぞ、お前の好きだったあの…。ありがとうよ。心躍ったよ。しばらくは元気でいれそうだ。CSで昔のミュージックビデオ特集にチャンネルを合わせた。そういえば村井邦彦とアルファレコードを立ち上げてユーミンやYMOのヒット曲をプロデュースしていた川添象朗さんが亡くなったとニュースで言ってたっけ。今日は小坂忠でも聴くとするか。思い出せば、あの頃の空は今より遥かに澄み切って見えていたような気がする。

家具屋の思い出話

(35)「子供の頃 不思議な旅」
Cozy Flat オーナー 仲 洋史

今でも不思議に思い返す。なんて冷静な子供だったんだと。いや正直、子供とは思えない4歳だった。絵コンテが書き込まれた映画の台本を手に、どうこの話を膨らませようかと考えている助監督のように計画を練っている。どうすれば喜ぶかと。大切な友達との別れとか入院中の大好きな母親の見舞いとかの話じゃなく、ただ近所のじいちゃんやばあちゃん達と町内の老人会の旅行に連れていかれる時の事なのに。飯塚から別府への旅。汽車の中で台本を思い出し頭の中にセリフと動作を落としこんでいく。始めて行く旅行のはずなのに全てが経験済みのように刷り込まれている。3時間以上列車に乗っているにもかかわらず車窓の景色を見ながらおとなしくむいてもらったミカンを食べる4歳。決してぐずることなどしない。別府の温泉街に着くとおばあちゃんに小さな声で竹の刀を買ってとねだる。「もうしょうがないねぇ。」と喜んで買う僕のおばあちゃん。当然体の小さな僕は大きな刀を選ばず短い刀を選ぶ。旅館に入って買ってもらった刀を大事そうにしながら持ち上げてちょっとだけ見せびらかす。ここまで僕はほとんどしゃべらない。それから部屋で買ってもらった刀でみんなを切って回る。初めて発する僕の言葉「えい!」にみんなは「やられた−」と言って喜ぶ。次から次に私も切っておくれとリクエストが飛び僕は必ずそれに応える。その場を和ませながらも周りの人々が高揚しているのがわかる…。演者としてはとても疲れているのに何とも言えない満足感がある不思議な4歳。ずっと心の中にいる監督さんの声に従っていた。コンクリートと岩に囲まれた小さな入り口の蒸し風呂にも皆と一緒に入って笹の葉みたいなモノで打たれる。黙って打たれる。まぁこの子は偉いね−と褒められる。台本通り。その頃の僕はまだ僕じゃなかったんじゃないか?たかが4才の子供にそんな事が出来るだろうか?でもあの時の僕は間違いなく僕だった。3泊4日の旅で小さくて大人しい良い子の僕は周りのじいちゃんやばあちゃんをすっかり虜にし、「本当に楽しい旅やった。また一緒に行こうね!」と声をかけられた。「必ずまたこの坊ちゃんを連れてきてね!」と言われた僕のおばあちゃんは喜色満面で頭を下げている。そう、僕はこのおばあちゃんを喜ばせる為に台本通りの演技をし、完結させたんだ。帰り着いた夜、僕は熟睡した。そして不思議なことにそれからの記憶がしばらくない。今の私なら帰り着いた日、背広を脱ぎながら「いやー、喜んでもらえたし、まぁ成功だな。」とビールを飲み気分良くウイスキーのロックに進むだろう。しかしあのじいちゃんやばあちゃん達とはその後二度と一緒に旅行に行っていない。それからの記憶が本当にない。あの時の僕は本当に僕だったんだろうか?あの旅は本当だったのだろうか?あの時のじいちゃんやばあちゃんの顔も、一緒に食べたであろう食事も何も記憶がない。ただ一つ列車の中のミカンの味だけは覚えている。

家具屋の思い出話

(34)「社会人になって」
Cozy Flat オーナー 仲 洋史

 「こんにちは。」「何しに来た・・・まぁ上がれや。」この会話で始まる毎日。通勤しているかのように朝10時にチャイムを鳴らして中に入り雑談して5時頃に帰宅する。覚悟は決めていたが、心は重たかった。それは1件の売掛金未処理案件として、とある事務所へ売掛金回収の為に訪問しているのだった。  新卒で天神にある宝石会社に就職したのだが、私の入社試験の成績が一番だったらしく、とりあえずこの一番の奴を誰に育てさせようかと役員が相談の上、社員のまだ若い医者の息子に任せようと言うことになったらしい。この医者の息子である先輩がちょっとアウトローだった。何せ失礼を顧みず、言わせてもらえば医者になれなかった息子である。その先輩はちょっと強面で独特な世界観を持って いた。お父上は外科医であった。先輩はよく言っていた。「医者なんてものは職人なんだ。」それは外科手術が評判の父親の姿から言っているんだなと思った。そして彼もとても器用でその言い分には納得させられた。「医者になればよかったじゃないですか。」「医者は好かん。」どうもお父上が厳しすぎたのか小さい頃から医者にはならないと決めて別の世界を渡り歩いたようだった。もったいないと思ったが、彼にはオヤジが名医であると言うバックボーンがあり医者でなくても別段不自由もなかったから私の思いは見当違いだった。お父上は早々にビルを建て開業していた。そのビルの中では上階の住居に上がる階段にもふかふかの絨毯が敷き詰められていて、私の家とは全く違っていた。そして有望株の私を託されたその先輩は何故か1年後に、突然独立するといい始める。ライクアローリングストーン。私もその先輩について会社を去った。新会社はお父上のビルの空き部屋からで、仕事か遊びか分からないような甘いスタートだった。会社も新しく顧客を持たない私は信用もなく成績が上がるはずもなかった。紆余曲折あり人生をやり直そうと悩む。ぽっと出の会社は経営が安定していなかった。私はその会社で役職のような事をしていたので、その責任も取ろうと思っていた。3年後のある日。覚悟を決めて私は社長に申し出た。「辞めさせてください。」「そうか。君がそう言うならよっぽど考えたんだろう。悪かったな。」「いえ・・・」涙ぐんで答えた。「そしたらこの1件だけ回収してくれないか。置き土産として。」「わかりました。」嫌な予感がしたが、後には引けない。そこで事務所詣でが始まるのである。  それからほぼ毎日通った。そして毎日この会話で一日が始まる。2ヶ月目位に突然何が幸いしたのか一番偉い人が「ここに行けばローンを組んでくれるぞ。」と言い、僕はそこに飛んだ。その日の夕方記入済みのローン用紙を手に社長を訪ねた。「こんにちは。」「まあがれや。」例の事務所と同じような会話になりかけたが僕は上がらず「今までありがとうございました。」と礼を言い用紙を渡しドアを閉めた。終わった。長い夏がやっと終わった。心からそう思った。ドアの外で見たあの日の夕日はとてつもなく大きく眩しく、そして優しくこれからの始まりを感じさせてくれた。

家具屋の思い出話

(33)「学生の頃」
Cozy Flat オーナー 仲 洋史

 西新の電気屋のバイトで中洲の仕事の帰りに「中洲いいですね!」と言ったあの日から半年後に中洲でバイトすることになろうとは夢にも思わなかった。「この子の長い髪を切ってやって。うんと短く切ってよ。」ある日中州で働いている叔父さんに呼び出されて冬休みにうちの店でバイトしろと言われた。お前の為だ!みたいに勝手に決められた。しかも夜遅いからうちに居候しながら働けと言いつつ散髪屋に連れて行って僕の髪を切らせたのだった。おじさんは小さなクラブでマネージャーをしていた。その店には女性が数人働いていて高級ではないが、とりあえず紳士風な人が集う店だった。黒ビールに卵の黄身を入れて飲む人もいて驚かされた。ビールは麒麟がメインだったがサッポロもアサヒもサントリーも冷蔵庫に入っていた。たまにビールメーカーの人が客としてきた場合にそのメーカーのビールを出すのがしきたりだった。これも店のおもてなしで、ちゃんと経済を回しているなと勉強になった。中州の夜のバイトは最初どうにも馴染めず、バイト終わりに屋台で飯を食わせてもらうことが唯一の喜びだった。居候先には小さな娘が二人いて、必ず朝布団に飛び乗ってきてまだ眠いのに起こされるのが日課だった。少し店に馴染んだ頃、ジンのストレートを頼むお客さんがいた。小さなグラスにナミナミ注がれた表面張力状態でのジンのストレートはトレイに乗せて運ぶと少しこぼれた。その人は言った「君はバイトだね?どこの学校かね。」僕が答えると「そうかね。僕はそこの理事をしてるけどね。」横についていた女の人があらまーという顔をして「嘘。嘘よ。かっこつけてるとよ。心配せんで。」と言ってくれた。僕はちょっと安心しながら、この微妙な悪い冗談を言うヘンテコリンな大人にだけはなりたくないと思った。まだ知りたくもない大人の世界と知ってはいけない夜の世界がありそうだった。これは深い穴で一度迷い込むと抜け出せないような気がした。その冬のバイトの間に酔客が得意満面で、「昔は、夜の中州といえば男が女に貢がせて女を泣かせよったとよ。」「だけん世間では中洲のことを男はナカス(泣かす)と読んで、女はナカズ(泣かず)と呼びよったと。」と言った。この一言が妙に心に引っかかりいまだにその瞬間を不思議と覚えている。バイトの間に徐々に仲良くさせてもらって、あの堅物マネージャーの親戚だと大変ねとか開店前の掃除の時間にわざわざ着替えたドレスの背中のジッパーを閉めろとか言ってきた女の人達はどこかで意地でも泣くまいと戦っていたんだろうか。あの頃はもうそんな時代ではなかったのかも知れないが。短い間だったが世間知らずの僕を少しだけ大人の世界に誘ってくれたあの女性たちがホントはみんな優しくて、そして強くて、温かかった思い出だけが僕に残っている。ありがとう、楓さんたち。

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