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​情報紙 SECOND

SECOND Column Page

モヒカンらーめんの作り方(仮)

​「ニヤニヤして近づいてくる人①」vol.10
モヒカンらーめん味壱家 店主  於保 貴久

先月号で触れたニヤニヤ顔で近づいて来る人とのエピソードです。

あれは熊本震災で疲れ果てていた2016年の夏の頃でした、ある法人会の紹介でうけたSNSセミナーの講師のお話です。

その方は一見クリエイターっぽい在り方で、多少胡散臭さもあったのですが、同じ久留米出身って事や共通の知人がいた事で意気投合!その流れでSNSのアドバイザー契約をしました。ここからが本題で、「震災復興の補助金の枠がありまして、とある議員さんから特命で依頼をうけているんです。ここだけの話ですが、同郷のよしみで着手金OO万円でこの話を通します」

これだけ聞くと、怪しいと思うでしょう?これが震災後に経営の立て直しをしようと必死にもがいていた当時の私には「この復興フェーズで人を騙す人はいない」と勝手に思い込んでいました。そこから補助金の申請を進めていのですが、少しずつ怪しさが露見していくのでした。次号に続く。

10月の25周年祭イベントのお知らせ!

先月号で10月19日(日)でお知らせしていた周年祭ですが日程変更となりました。この日は店主おぼがオープンからラストまで店に立ち、スープ・チャーシューなど全ての仕込みを監修。25年間ブラッシュアップを続ける更に進化した一杯をぜひご賞味ください。さらに!ご来店の皆さまには、ハズレなし抽選会。無料券や限定Tシャツなどが当たります・:*・:*25年間のありがとうを込めて。ぜひ一緒にお祝いしてください!お待ちしております。

 

 

★25周年祭イベント★

10月12日(日)11:00〜15:00、17:00〜20:00

場所:モヒカンラーメンセンター(福岡市東区蒲田1丁目1-11)

モヒカンらーめんの作り方(仮)

​「モヒカンワクワクカンパニー!」vol.9
モヒカンらーめん味壱家 店主  於保 貴久

先月号では25周年の記事を読んでくださりありがとうございました。多数のコメントや反響いただき、改めて25年の

重みを実感しております。苦しくも23年で久留米の地を去りましたが、今後、社員さんも久留米出身なのと、子供たちにバトンタッチする際に久留米の地に再びお店を開けることを夢見ています。

今まで数回にわたって25年前からの事を振り返ってきましたが、今回から数回は箸休めとしてちょっと違ったエピソードを紹介します。このように、セカンドさんで過去や未来を分かち合っていくと、不思議といろんなご縁が舞い込んできます。私は常々、社員さんや子供たちに「ニコニコして近づいてくる人と、ニヤニヤして近づいてくる人を見抜きなさい」と伝えています。概ね自分が本当にピンチな時にその両人が見分けられない時が来ます。そんな時は「一緒に飯食ったらいい」と私の実体験から伝えています。

来月号は今まで私にニヤニヤして近づいてきた人達をすこーしだけご紹介しますね。

ちなみに、直近でニコニコして近づいてきた人の中に過去にバンコクで一緒に仕事した仲間がいます。また来年一緒にやるかもしれません。今年55歳になりますが、可能性はまだまだ無限大です。日々ワクワクしてればワクワクした仲間が集まってきます。それでは今月はこの辺で。

モヒカンらーめんの作り方(仮)

​「父の日」vol.8
モヒカンらーめん味壱家 店主  於保 貴久

6月8日早朝に私の父が他界しました。

父の日まであと1週間、そして大のジャイアンツファンだった父のアイドル的存在・長嶋茂雄さんの告別式のあるその日でした。若い頃から車の運転が得意だった父は自動車学校の先生を経て地元の大手タクシー会社に40年近く勤務していました。子どもの頃から久留米の街中に父がどこかにいるということが心の支えでもあり、安心して商売をできる原動力にもなっていました。そんな父が80歳を過ぎた頃、そろそろ免許返納だねと言う話から「今まで人生生きてきてさぁ、やり残したこととかもっと挑戦してればよかったなぁみたいなことってある?」と質問しました。父からは「もう充分何でもやってきたよ。ただ高校卒業してそれなりの覚悟と決意を持って東京に出たけど、家業の米屋の商売が大変になって、ばあちゃんがわざわざ東京まで迎えに来たんだよ、本当は田舎に帰りたくなかったけど、当時は家の商売を手伝うのが当たり前の時代だったから、仕方なく帰ってきたんだ。

トラックに米を積んで精米して売ってってお父さんもそれなりに努力したんだけど、一度傾いた商売ってなかなかうまくいかずに、俺は車の運転の仕事に就いたんだよね。でも全然後悔とかしてないよ」と話してくれました。これが生前の父とちゃんと向き合って会話した最後のコミュニケーションだったと思います。僕にオートバイの乗り方を教えてくれたのも、野球のルールを教えてくれたのも、キャッチボールしてくれたのも、私が若い頃に事件を起こして、世界中が敵になったときに守ってくれて励ましてくれたのも父でした。

もう近所には父の同級生は誰も残っていませんでした。寂しいお葬式になっちゃうなぁと思い、せめてお花だけは豪華に見送ってあげようと思い奮発したのですが、たくさんの方からの献花やご焼香のおかげでとても賑やかで笑顔溢れる葬儀となりました。改めて父が生前大変お世話になりました。父に代わりまして御礼申し上げます。合掌

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モヒカンらーめんの作り方(仮)

​「高熱にうなされて」vol.7
モヒカンらーめん味壱家 店主  於保 貴久

おかげさまで開業して今年で25年になるモヒカンらーめんですが、オープンして約8年間は世間の人も地元と久留米の人でさえ全くと言っても良いほど知られていない超マイナーなお店でした。

そんな超マイナーなお店に来るお客さんたちは物好きというか、本当に一風変わったお客様が多くて、実は連休中にコロナになって寝込んでたんです(汗)たまたま深夜食堂ってドラマをネットで見て当時のことを思い出しました。オープン当初は深夜

3時まで営業していて、焼酎キープもあり、当時としては斬新な生ビールのセルフサービス「自分で注いだら100円引き!」というラーメン屋なのか居酒屋なのかネカフェなのか、本当にカオスのようなお店でした。そんなモヒカンにほぼ毎日のように閉店間際の午前2時半ごろ来てくれる雀荘のマスターがいました。どう見ても、グレーというか、真っ当な日向の道を歩いてきたようには見えないおじさんだったのですが、いつも雀荘の常連さんを何人か連れてきてくれてましたので、ラーメンを食べると言うよりも、今日は何作ってくれとか、あれが食べたいとか、結構わがままな注文をするので、ちょっと予測して仕入れをしたり仕込みをしていたことを思い出しました。ほんと深夜食堂ですよね。そのマスターは不思議な魅力がある人で何よりグレーな話しがどれだけでも出てくるような情報の玉手箱のような人でした。今となってはコンプライアンス的に許されないようなことでも笑って許されていたような、そんな武勇伝を一杯飲みながら笑い飛ばすおじさんでした。

夜中までお店をやってると、いろんな人間模様が見えて、その人なりの1日の完了に役に立ててたかなぁと、懐かしく思いました。また常連さん達に囲まれて小さなお店をやりないなーって、熱と後遺症にうなされながら思いました。

モヒカンらーめんの作り方(仮)

​「初の店舗プロデュース(2)」vol.6
モヒカンらーめん味壱家 店主  於保 貴久

「ラーメン屋をやりたい!」と相談してきた方はTさん(仮)は設備サービスの会社を経営されている方で、バイク仲間の紹介で来られました。当時2000年初頭は空前の豚骨ラーメンブームでした。

俗に言うコンサル系のラーメン店が全国で開店している状態で、建設会社とかがサイドビジネス的に「飲食部門」としてラーメン店を簡単に展開しているのを見てきて、自分の気持ちとしては羨ましいとか悔しいの気持ちで、素直に受け入れられる案件ではありませんでした。でも何度も面談してTさんの話を聞いていくうちに今後の事業の継承や子どもとの時間、何よりも熱意に打たれて全面協力する事となりました。

後にTさんはあっという間に2店舗、そして飲食店だけで4店舗まで拡大されて、そのスピード感とバイタリティに度肝を抜かれました!Tさんは現在、訳あって飲食からは撤退されてますが、20数年なった今でも、うちの店舗の設備の相談をさせてもらってます。恩人でもあり、アニキみたいな存在の人です。

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顧問弁護士:ことまる法律事務所
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