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​情報紙 SECOND

SECOND Column Page

モヒカンらーめんの作り方(仮)

​「日々雑感」vol.2
モヒカンらーめん味壱家 店主  於保 貴久

 さて、24年前に出港したモヒカン丸ですが、先月号でも書きましたが全くの無計画で寸胴はおろかガスコンロやちょっとしたキッチン用品も買うお金がありません、そんな時に手を差し伸べてくれた、今は亡き恩人とのエピソードです。

 2つ年上のEさんとの出会いは私が修行中の深夜の営業中です。当時の私は全国でもまだ珍しかったと思うのですが、金髪ロン毛のラーメン店長でした。ザ!職人って感じではなく、結構チャらく映っていたかもです(汗)カウンター越しにバカ話しの途中、将来の夢の話になり「30歳までに独立する!」って私が宣言したんです。Eさんが「えーー!!!金髪チャラ男が独立できるわけないやろ!」って一蹴されたのを覚えています(笑)しかし、地元の厨房器具メーカーの現場責任者だったEさんは修行元を半ばケンカ別れしたように去った私に(当時師匠の許可が無いと業者さんとのお付き合いが出来なかった)廃棄された寸胴やバーナー、「掃除したら使えるから」って言って持ってきてくれたり、ガスをガンガン炊いて高額なガス代の支払いに困ってるって話したら、まだ開発途中のバーナーを会社に内緒で持ってきてくれて、「これで省エネになるけん!」って一文無しの私に全面協力してくれました。Eさんをはじめ沢山の協力者のおかげでスタッフにも恵まれ、苦節8年目にして念願のTV出演を果たしました。そこからの毎日は本当に目の回る忙しさで2号店3号店と順調に業績を伸ばし、Eさんにも厨房器具の注文や設計等で少しは恩返しが出来たかな?って勝手に思っていました。が、日々の業務に追われ徐々にEさんへの仕事の依頼も社員さんに任せきりになっていました。ある日、人づてに体調を崩して入退院を繰り返していることを聞きました。急に胸騒ぎを覚え、電話をしたのが火災から1年ちょっと経った残暑厳しい秋の日でした。ダメもとでかけた電話に元気にでてくれたEさん、病気の不安やキャンプ事、昔の事への感謝の気持ちを精一杯伝えました。電話ありがとう!またラーメン食べにいくよ!と言ってくれた。その日から丁度1週間後にお亡くなりになったと知らせがありました。

 Eさんは久留米のラーメン業界に尽力されて、命を削って業界の拡大に200%立場をとった男の中の男でした。このコラムを偉大な厨房マンEさんに捧げます!Eさん!本当にお世話になりました!ありがとう!

モヒカンらーめんの作り方(仮)

​「日々雑感」vol.1
モヒカンらーめん味壱家 店主  於保 貴久

 セカンド愛読者の皆さんこんにちは。冒頭に謝罪させていただきます。思い起こせば1年半前に全焼となる火災を起こし、近隣住民の皆さんをはじめ広域にわたり、情報系インフラに多大なるご迷惑をおかけしました。

 月日が経つのはあっという間で、今では店舗跡地はアスファルト舗装され、何事も無かったかのような様相です。2000年創業から今までのモヒカンの歩みと、現在何を考えて経営しているのか、そしてどこに向かっているのか、そんな私と、長年頑張ってくれている社員さん家族のそれぞれの視点からコラムを綴らせていただきます。しばしの間お付き合いくださいませ。

 さて、ラーメン屋というより、飲食業界という大局で世の中の移り変わりをみると、コロナ前コロナ後で大きく外部環境は変わりました。その前を見れば熊本震災前と後、東日本震災の前と後。でもやっぱり我々業界に大きな影響をもたらしたのは飲酒運転の厳罰化が大きく世の中を変えましたね。同時期に店内での喫煙不可も相乗効果で世の飲食店は震え上がりました。

 そんな、もはや戦前と言っても良い2000年7月末にモヒカンらーめんは産声をあげました。実はその前に居酒屋さんで間借り営業していた時期もあるのですが、その話はまた別の機会に。

 世はITバブルで大きく盛り上がっているなか、その日の釣り銭にも、その日の仕入代金にも困窮しているのに只々「誰よりも美味しいラーメンを俺は作る!」という根拠の無い自信と、妻の中に宿る新しい生命に対するワクワクと不安に満ち溢れた不肖わたくし、大人になれない29歳おぼたかひさの無謀な挑戦の物語がはじまりました。

つづく

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